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写楽は一体どこの誰だったのだろう?



こちらはみなさんよくご存知の
『三世大谷鬼次の奴江戸兵衛(さんせいおおたにおにじのやっこえどべえ)』

1794年(寛政6年)5月から翌年2月にかけてのわずか10ヶ月の間に、
役者絵などを140枚ほど描いて消えた東洲斎写楽。

それ以前にも以降にも何の痕跡も残さず、
ただ長い浮世絵の歴史の中にあって極めて異質な作品だけが残っています。

写楽は一体どこの誰だったのだろう?

その謎に多くの専門家や研究者が実に様々な説を唱えています。

最近、定説とされているのは、
阿波藩お抱えの能役者、斎藤 十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ)さんということのようです。

「浮世絵類考」に、写楽は十郎兵衛さんだと書いてあるので、
そうなのかなと思われているのですが、
その記述は写楽が消えてから30年くらい後に書き加えられたものなのです。

なぜ、そんなに時がたってから急に正体が明かされたのでしょう?

なぜ、写楽の当時の痕跡が何も残っていないのでしょう?

版元の蔦屋をはじめ、
十返舎一九や山東京伝、歌麿や北斎など発信力のある文化人が
たくさん周りにいたはずなのに、
写楽がどんな人か、
誰一人、
噂話の一つも残していないというのが実に不可解です。

能役者は武士の身分なので、
副業が藩にばれたらまずかったから内緒にしていた、
というのが理由なのだと言いますが、
本当にそれだけなのでしょうか。

写楽の正体が十郎兵衛さんだとして、
なぜ素人の能役者が突然出てきて人気絵師のような
雲母摺りの大判ポスターを一度に大量に出せたのでしょう?

謎が多すぎます。

少なくとも写楽の正体については皆が冗談でも口にできない、
とんでもない秘密があったことは間違いなさそうです。

しかし、なぜ蔦屋はそんなに危ない人を派手にデビューさせたのかという謎は、
本当にわかりません。

蔦屋重三郎の謎です。

なぜ蔦屋は、誰も知らない絵師の役者絵を突然、大々的に発売したのでしょう。

しかも準備期間を入れれば、ほとんど1年間、写楽にかかりきりです。

蔦屋の写楽に対する強い執着が感じられます。

蔦屋の狙いが何なのかは分かりませんが、
江戸きっての大プロデューサーです。
当然、売れるという自信があってのプロモーションだったのでしょう。

寛政5年、歌麿の大首絵「当時三美人」が大評判、
今度は役者絵でヒットを出すぞ!と絵師を探していたところ、
見つけたのが写楽だったのか。
同じように雲母摺りで大首絵、しかも今までにない斬新なタッチ、
これは凄いぞ!と思ったのか。

蔦屋は、様式美一辺倒になっていた綺麗なだけの役者絵に
飽き飽きしていたのではないでしょうか。
自分の審美眼を信じて、肖像画とはこういうものだ、
と世に問うたのではないかと思うのです。

蔦屋重三郎がそこまで惚れ込んだ写楽の役者絵でしたが、
少しばかり時代を先取りしすぎてしまったようです。



『坂東善次の鷲塚寛太夫の妻小笹 岩井喜代太郎の鷲坂左内の妻藤波』
(ばんどうぜんじのわしづかかんだゆうのつまこざさといわいきよたろうのさぎざかさないのつまふじなみ)

結局、あまりにリアルな肖像画は江戸の庶民には受け入れられず、
正当な評価がなされるのは
100年ほど後の大正期に入ってからのことになります。

そして200年後の現在でもなお、
写楽って一体何者だったのだろう!?という疑問は
完全には解き明かされていないのです。