8月ももう半ばですってよ。
このところ日本列島、不安定な天候が続いていますが
皆様、お元気ですか?
今の時代に北斎さんが生きていたら
どんな風景をどんなふうに描いていたのでしょうね。
そんな妄想をしながら、ハイ! 元気良く
『アート大好き青野カエル的解釈の北斎・富嶽三十六景の旅』へ参りましょう〜!
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葛飾北斎は52才の頃、関西方面を旅行しています。
大阪や伊勢、奈良、和歌山などを訪ねて、
名古屋の門人、牧墨僊(まきぼくせん)のところに半年ほど逗留したそうです。
その2年後にも名古屋を訪れ、その時は1年も滞在したとか。
名古屋も江戸も、家康公プロデュース。
城下町の雰囲気が江戸に似ていて、居心地が良かったのかもしれませんね。
その名古屋からの富士を描いたのが「尾州不二見原」。
「桶屋の富士」とも言われる有名な作品です。
巨大な桶を丸窓のように置き、
名も無き市井の職人さんを主役に大抜擢。
本来の主役は遠くに小さく、しかし、しっかりと枠の中に収まっています。
シンプルながら安定感抜群の構図は、北斎先生ならでは。
誰にもまねのできない奇想だと思います。
大袈裟に大きな桶ですが、実は計算された絶妙な大きさ。
半径は画面の縦の三分の一の長さです。
そう、「三ツ割の法」ですね。
そして、ぶんまわし(コンパス)を駆使しています
「深川万年橋下」では水平の半円形で橋を、
「隠田の水車」では垂直の半円で水車を描きました。
そして、円を真ん中に大胆に配置した「尾州不二見原」。
この三作品を、カエルは勝手に「富嶽三十六景、三大ぶんまわしの図」と呼んでいます。
「尾州不二見原」は、富嶽三十六景の中で最も西から描かれたものです。
ロケ地を確認しておきましょう。
「不二見原」は、現在の名古屋市中区の富士見町のことだと
考えて間違いはないでしょう。
江戸時代に編まれた地誌「尾張名所図会」に
東別院(東本願寺別院)の東北に小高い丘があり、
猿投山の左に富士が見えることから
「富士見原」という地名になったと書かれています。
古地図で見ても、富士見原は名古屋台地の縁にあって
富士山方向の東側には田んぼが広がっていて、この絵の構図と一致します。
ロケ地が判明したところで、
皆様にはショッキングな事実をお伝えしなければなりません。
実は、
桶の向こうに見える富士山は、
・・・富士山ではありませんでした。
昭和51年に名古屋地方気象台が発表しちゃいました。
新しく導入した大型レーダーで観測してみたけど、
残念、富士山は見えなかったそうです。
後には、カシミール3Dなる地図ソフトなどによっても、
その事実が証明され、「桶屋の富士」は完全に
「幻の富士」となってしまいました。。。。
江戸時代よりずっと昔から、昭和の終わり近くまで、
皆が富士山だと信じて疑わなかったあのとんがった雪山は、
南アルプスの聖岳か上河内岳なのだとか。
現代の測量技術が名古屋の人々の夢を
北斎ファンの浪漫を打ち砕いた悲しいお知らせでした。
でも、そんなの関係ない。
「桶屋の富士」はこれまでも、
そしてこれからもずっと、私たちの心の富士山なんだもん。
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そう、
心の富士山ですね!
カエルの旅、次回もどうぞお楽しみに!