愛知県の鳴海には、有松・鳴海絞(ありまつ・なるみしぼり)という名産の絞り染めがあり、
広重の東海道五十三次『鳴海 名物有松紋(なるみ めいぶつありまつしぼり)』には
その絞り染めを商っているお店が描かれています。
店の暖簾に、菱形の模様が描かれていますね。
一見すると商店の印かと思われますが、
実はこれは、絵の作者たる歌川広重の家紋なのです。
さらに言えば、これは広重自身が考案した、彼しか用いない固有の紋。
紋の基礎となっているのは菱形で、
菱の中にまたひとつ小さな菱があります。かと思えば、中の小さな菱には、
左側に不自然な線が入っています。
この紋を俯瞰して見れば、その謎はわかります。
これは、広重の「ヒロ」をカタカナで図案化したものなのです。
つまり、外枠となっている大きな菱が「ロ」、
そして中に入っている線が「ヒ」を表しているのです。
とっても単純明快ではありますが、
全体的な構図を菱形にまとめることで、
単純でありながら優れたデザイン性を発揮している点は、
絵師として培われてきた美的センスが役に立ったのでしょうね。
また、菱形という簡単な図形にすることによって、使い勝手もよくなります。
実際、『原 朝之富士』『赤阪 旅舎招婦ノ図』『白須賀 汐見阪』でも、
このヒロ菱が作品の中に取り入れられ、
作者の愛着ぶりと遊び心が偲ばれます。
歌川広重は、本名を安藤重右衛門といいます。
父は源右衛門といい、江戸幕府定火消の同心、
つまり武士であり、御家人でした。
定火消(じょうびけし)とは幕府直轄の消防隊のこと。
広重は、わずか13歳で家督を継ぎ、定火消同心となりました。
歌川派に入門し、絵師としての人生が始まるのはその数年後のことです。
安藤家の家紋は、残念ながら今に伝わっていません。
江戸幕府は、徳川家親類をはじめ、諸大名、旗本の家系を収集して
資料としてまとめたものがありますが、御家人はその範囲外でした。
通常、家紋は服飾品や身の回りの品に取り付け、
所有者を明示する役割があります。
広重ゆかりの品にも、きっとそれがあったことでしょう。
しかし、こちらも残念ながら、広重の遺品はほとんど今に伝わっていません。
数少ないゆかりの品に、死絵があります。
(wikipediaより画像引用)
死去した人物を追悼するために描かれるもので、
広重の死絵は、門弟の歌川国貞が描きました。
画中の広重は着物に羽織を身にまとって正座をし、
羽織にはヒロ菱があります。
武人として生まれ、画家として生涯を生きた証として、
ヒロ菱は今にも残されている。そのように思えます。