『夜のカフェテラス』や『星月夜』など、
美しくもどこか狂気なタッチで強烈な印象を観る者に与える天才画家、
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853~1890年)。
(wikipediaより画像引用)
1987年、ロンドンで行なわれたオークションで
『ひまわり』を日本企業が約58億円で落札し話題となり、
日本でゴッホを知らない人はいないとまでなりました。
今でこそ天才画家として高い評価を受けているゴッホですが、
生前に売れた絵はなんとたった一枚。
ゴッホの画家としてのキャリアは、
28歳から37歳で自ら命を絶つまでのわずか9年。
それ以前のゴッホは、
画商や教師、書店店員として働くも長続きせず、
聖職者を目指すものの勉学に挫折、
なかなか思い通りの人生を進むことができませんでした。
やがて「絵を描く」ことに光りを見出すものの、
金銭的な問題や家族との折り合いが悪いなか、
唯一の味方は弟のテオ。
彼はゴッホに金銭援助を始めたそうです。
そして1886年、パリに住むテオを頼り
ゴッホはパリに向かったのです。
パリではポール・ゴーギャンやカミーユ・ピサロ、エドガー・ドガらと
親交を深めていきました。
そして、当時のパリの流行のひとつであった浮世絵にゴッホは出合うのです。
浮世絵の魅力に傾倒したゴッホは、
貧しい生活の中でも浮世絵を購入したり、
日本美術品を扱う店に足繁く通っては浮世絵を眺めていたそうです。
また自分の作品と浮世絵を同時に展示する個展を開いたこともあったのだとか。
今までにない新しい世界に出合い、
この時期、どれほど心が躍ったことでしょうか。
あるいはものづくりをする人として、
ジェラシーもあったのかもしれない、そんなふうにも思います。
浮世絵に触発されたゴッホは、
ただ眺めているだけでは飽き足らず、
浮世絵の素晴らしいところを自身の作品に
どんどん取り入れます。
なかでも広重の作品は
ゴッホにとって刺激的だったようで、
『名所江戸百景 大はしあたけの夕立』や
『名所江戸百景 亀戸梅屋敷』などの作品を模写しています。
ゴッホが模写した『名所江戸百景 亀戸梅屋敷』
(wikipediaより画像引用)
こちらが本家本元、歌川広重『名所江戸百景 亀戸梅屋敷』
ゴッホが模写した『名所江戸百景 大はしあたけの夕立』
(wikipediaより画像引用)
こちらが本家本元、歌川広重『名所江戸百景 大はしあたけの夕立』
この頃、ゴッホはお世話になったパリの画材屋の主人をモデルに絵を描きます。
それがあの『タンギー爺さん』。
モデルの背景に描かれているのはすべてゴッホが
所有していたと言われる浮世絵の数々。
広重の『五十三次名所図会 石薬師』、『冨士三十六景 さがみ川』などの作品を
取り入れるも、そのままを模写するのではなく
効果的に構図を変え、自身の作品の中でより良く活かし表現をしています。
ゴッホにここまで惚れられた広重。
風景画を得意とする広重は、構図、題材、季節、天候、
時間帯どの設定も綿密で
更に和歌や俳句など取り入れるなど、
演出も徹底していたといわれています。
また、西洋の一点透視図法や二点透視図法を習得し、
安定した遠近感を表現する技術を持っていました。
浮世絵界にベロ藍という染料でつくる青色が流行し、
このベロ藍を海外では、「ジャパンブルー」「北斎ブルー」、
そして「ヒロシゲブルー」と呼んでいるそうです。
北斎も同様ですが、広重の風景画でこのベロ藍は
大変効果的に使われていたというわけですね。
広重は、60歳から『名所江戸百景』120図を制作し、
62歳で亡くなるまで精力的に風景画を描き続けました。
ゴッホの広重への敬意は書簡の中でこのように綴られています。
「日本の芸術を研究してみると、あきらかに賢者であり哲学者であり知者である人物に出合う。彼は歳月をどう過しているのだろう。地球と月との距離を研究しているのか、いやそうではない。ビスマルクの政策を研究しているのか、いやそうでもない。彼はただ一茎の草の芽を研究しているのだ。ところが、この草の芽が彼に、あらゆる植物を、つぎには季節を、田園の広々とした風景を、さらには動物を、人間の顔を描けるようにさせるのだ。こうして彼はその生涯を送るのだが、すべてを描きつくすには人生はあまりにも短い。いいかね、彼らみずからが花のように、自然の中に生きていくこんなに素朴な日本人たちがわれわれに教えるものこそ、真の宗教とも言えるものではないだろうか。日本の芸術を研究すれば、誰でももっと陽気にもっと幸福にならずにはいられないはずだ。われわれは因襲的な世界で教育を受け仕事をしているけれども、もっと自然に帰らなければいけないのだ」
(引用:ゴッホの手紙 硲伊之助訳)