昨日にひき続き、
あの写楽の作品のお話、
いきますね!
2020年の東京五輪のエンブレムは、
日本伝統の文様である市松文様がモチーフとなっています。
市松文様は、白黒など二色の四角形を交互に配置した格子文様です。
元々は石畳(いしだたみ)文様と呼ばれていましたが、
歌舞伎役者の佐野川市松が衣装に取り入れたことで市井の人気を集めました。
本作に描かれているのは三代目市松で、
襟の文様が市松文様になっています。
初代佐野川市松は享保七年(1722)、
京都伏見で武士の子として生まれました。
しかし武士にはならず、京都の芝居小屋関係者の養子となり、
役者の佐野川万菊の弟子になりました。
佐野川万菊は、市松と同じく武士の子で、
播磨国姫路の出身、佐野川一門の元祖に当たる人物です。
浪人となった父に同行して大阪に住み、
そこで役者の藤川繁右衛門の弟子となります。
藤川の紋は桐紋で、万菊も一時は師匠の紋を使って活動していましたが、
のちに佐野川家を起こし、
それからは『丸に同の字』紋を使うようになりました。
以後、これは佐野川一門共通の紋となっています。
『三世佐野川市松の祇園町の白人おなよ』の衣装にも、
袖のところに『丸に同の字』があります。
家紋に関する由来はわかっていません。
初代佐野川市松は活動当初、
生まれ故郷に近い京都の歌舞伎座で演じていましたが、
寛保元年(1741)に江戸へ下り、
中村座で「高野心中」に出演します。
この時に用いた衣装の袴文様が石畳で、
市松の名演技に魅了された江戸の人々はその衣装にも注目し、
たちまち石畳文様は流行しました。
市松がその火付け役となったため、
〝市松文様〟と人は呼ぶようになり、今日に至ります。
市松文様がそもそもは石畳文様であることは、
先に述べた通りです。
家紋には、その石畳文様が家紋となった「石畳紋」が存在します。
記録上は鎌倉時代には存在し、武家が使い始めました。
戦場においても形が単純でわかりやすく、
石の配置を変えれば形の変更も用意なところも好まれたのでしょう。
鎌倉幕府重臣の梶原景時を出した平氏の名門梶原家や、
吉良邸で闘いを繰り広げる赤穂浪士たちのために
塀越しに提灯を掲げ明かりを与えた旗本・土屋主税の一族である土屋家などが、
主だった石畳紋使用家として知られています。
現在、佐野川家は途絶えていますが、
市松によって広まった石畳文様は、
日本の伝統的な文様として今も愛され、
石畳紋もまた多くの家で使われ、
これからも後世に伝えられていくことでしょう。