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その時、北斎72歳、広重37歳。その差は35歳!

葛飾北斎が1831年に『冨嶽三十六景』を
出版したとき、彼は72歳でした。

北斎の大胆でエネルギッシュな風景画に
多くの人が驚愕し、
無論、歌川広重も驚いた一人でした。

当時広重は37歳。
北斎は72歳。
35歳も年上の北斎に圧倒され、
絵を習うために、
北斎の工房に通ったともいわれています。

ちょっとここで二人の作品を比べてみましょう。


葛飾北斎  冨嶽三十六景 『神奈川沖波裏』


歌川広重『冨士三十六景 駿河薩タ之海上』

北斎が描いた波と富士山には明るさと強さと激しさ、
広重が描いた波と富士山には明るさと穏やかさと優しい印象を受けませんか?

晩年広重は、
「造形において北斎は自己主張しすぎる」と
批判をしていたとか、していないとか。

ところが、
広重が北斎の『尾州不二見原』を
模写した浮世絵がアメリカで発見されたのです。

↓これは北斎の『尾州不二見原』です。

『尾州不二見原』は、
桶から見える富士は小さく描かれてはいますが、
不思議と存在感が大きく感じます。

北斎はオランダの絵画から遠近法を学び、
その技法を効果的に使いました。

↓こちらが広重の『尾州不二見原』です。
広重が構図に驚き、模写した様子を考えるとほほえましいですね。


引用/歌川広重 『葛飾翁の図にならいて』
http://yajifun.tumblr.com/post/2596010577/barrel-maker-copied-from-a-picture-by-old-master

さて、
北斎や広重をはじめ、
多くの絵師たちが「富士山」をモチーフに
たくさんの作品を生み出してきました。

「富士山」は古来より、火の神が宿る神体と考えられ、
19世紀になると富士信仰が流行し、参詣する一般信者が増え、
庶民の憧れの場所となっていました。

北斎と広重が残した「富士山」に関する錦絵や絵本を通じて
2人の表現方法の違いを考えていきましょう。

北斎の『冨嶽三十六景』では、
ベロ藍を使用した新しい青、藍摺りによる「青色」、
斬新なフォルムで魅了しました。
北斎は平行して富士を題材に
絵本『冨嶽百景』を刊行しました。

一方、
広重は1833年に『東海道五拾三次之内』を刊行し、大ヒット。
北斎同様ベロ藍を使用しました。
広重の使う青色は濃淡が非常に美しく広重ブルーと呼ばれています。
1853年『不二三十六景』、死後、1859年に『冨士三十六景』が刊行されました。
『冨士三十六景』では風景画を縦絵にしています。
風景画の縦絵は今でこそ驚くことではありませんが、当時は大変珍しいものでした。
画中、名所に関連あるものを手前に大きく置き、その先にメインのモチーフを描くという
北斎が得意だった手法を取り入れた作品が多いのが特長です。

↓これは鯉のぼりの下腹に富士が見え、
他の鯉のぼりが、見る者の視線を富士へと導く役割を果たしています。


引用/歌川広重『江戸名所百景 水道橋駿河台」』
http://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail021.html

北斎が亡くなるとき、
あと5年あれば・・と悔しがったといいます。
こちらは、大変有名な北斎『富嶽百景』の後書きです。

原文
「己 六才より物の形状を写の癖ありて 半百の此より数々画図を顕すといえども
七十年前画く所は実に取るに足るものなし
七十三才にして稍(やや)禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり
故に八十六才にしては益々進み 九十才にして猶(なお)其(その)奥意を極め
一百歳にして正に神妙ならんか 百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん
願わくは長寿の君子 予言の妄ならざるを見たまふべし」

翻訳
「私は6歳より物の形状を写し取る癖があり、50歳の頃から数々の図画を表した。
とは言え、70歳までに描いたものは本当に取るに足らぬものばかりである。
(そのような私であるが、)73歳になってさまざまな生き物や
草木の生まれと造りをいくらかは知ることができた。
ゆえに、86歳になればますます腕は上達し、
90歳ともなると奥義を極め、
100歳に至っては正に神妙の域に達するであろうか。
(そして、)100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように
生きたものとなろう。長寿の神には、このような私の言葉が
世迷い言などではないことをご覧いただきたく願いたいものだ。」
ウィキペディアより引用

たとえ名声があっても満足せず、
いい絵を描くことに集中し、貪欲で、純粋だった北斎。
100歳まで生きて立派な絵を描こうというパワフルさに、
同じ絵師であれば、北斎の言葉に鳥肌が立ったはず。

広重は北斎を意識しつつ、自らのスタイルを確立していきました。
北斎の画風について批判はしたものの常に存在が心にあり、
良い絵を描くための研磨、工夫をする好敵手だったのかもしれませんね!