浮世絵の元祖は
岩佐又兵衛か、
菱川師宣か。
ふたつの説があるようです。
まずは「浮世絵」誕生前夜、
「浮世又兵衛」と呼ばれた男のお話しです。
福井藩の御用絵師に岩佐又兵衛という絵師がいて、
その評判は江戸にまで聞こえるほどでした。
寛永3年(1637年)、徳川3代家光の時、
将軍の娘の嫁入り道具の蒔絵を依頼された又兵衛は、
江戸へと召し出されます。
早く仕事を終えて福井に帰りたかった又兵衛ですが、
その見事な腕前を買われて、
今度は大火で焼けた川越の仙波東照宮の再建事業に駆り出されます。
帰郷を諦めた又兵衛は江戸に工房を構え、
奉納額画の「三六歌仙額」を2年がかりで仕上げると、
これがまた評判を呼び方々から絵の注文が殺到しました。
吉原などを取材した風俗画も得意とした又兵衛工房の画風は大人気。
大和絵風の柔らかなタッチで当世の美人画などを描き、
「浮世又兵衛」の呼び名が付いたのです。
岩佐又兵衛は肉筆だけで版画がないので、
浮世絵とは言えないという説がありますが、
出版社が多く立ち上がり、挿絵師が引っ張りだこだった当時の江戸にあって、
版元に挿絵など提供していたとしても不思議はないのではとも思います。
「浮世又兵衛」なんてあだ名で呼ばれるくらい有名だったわけですし、
12年もの間、江戸で工房を構えていたのですから。
ともあれ1650年、
福井への帰郷は叶わず、又兵衛は72才で亡くなってしまいます。
そして、
浮世又兵衛が人気の絶頂期に
江戸に絵の修行にやってきた少年がもう一人の元祖候補、
16才の菱川師宣でした。
師宣が又兵衛の工房にかかわったかは分かりませんが(年代的には十分考えられます)、
江戸で大評判の彼の風俗画は必ず目にしているはずです。
江戸での修行を経て、
一度は安房の国(今の千葉県)に帰って家業につきますが、
やはり絵師になりたくて、
寛文年間に出版文化の花開く江戸に戻り挿絵画家の群れに加わります。
江戸は明暦の大火(1657年)の後で、
一層の都市の発展の中、
上方からの「下りもの」ではなく江戸発信の出版物が出されるようになっていました。
まだ木版は墨摺りの単色でしたが、
菱川師宣の巧みな挿絵は評判となり、
単なる絵入り本の挿絵から観賞用の一枚絵として独立していきました。
17世紀後半、元禄の頃に出版された「月次のあそび」(つきなみのあそび)という
絵本の序文に師宣の絵を「浮世絵」と称した最初の例が見られます。
これ以後、狩野派や土佐派といった公家や武士らの御用絵師が描いた注文生産の一点ものの絵を「本絵」、
大量生産で流通ルートに乗って売られたのが「浮世絵」と区別されるようになりました。
浮世絵の元祖は、
岩佐又兵衛か菱川師宣か。
時代的には又兵衛の方が先に、風俗画で江戸の庶民の人気を博したわけです。
しかし現在分かっているところでは、
又兵衛はもしかしたら版本の挿絵くらい書いていたかもね、程度に対して
師宣の方は、版本の挿絵から絵を独立した商品にしたという功績がはっきりとしています。
なので、
菱川師宣が元祖、岩佐又兵衛は始祖といった感じでどうでしょうか。