さぁ久しぶりに
北斎さんのお話、いきます!
浮世絵の絵師名は、
画中の落款(らっかん)でわかります。
北斎(1760年~1849年)は、
なんと30回以上も改名したといわれています。
(すごいですよね)
ベースになっている画号は以下の6つで、
バリエーションをつけています。
「春朗」(しゅんろう)、
「宗理」(そうり)、
「北斎」(ほくさい)
「戴斗」(たいと)、
「為一」(いいつ)、
「卍」(まんじ)
改名の理由は、改名により画号を弟子に売ることになり、
その報酬を生活費にあてていたといわれています。
そこで
それぞれの時代と、
それらの作品についてまとめました。
春朗時代(1778年~1793年)
19歳まで彫師を生業としていた北斎は、
1778年、勝川春章(1726年~1793年)の門下に入り、
絵を学び始めます。
勝川派では、美人画、役者絵、黄表紙の挿絵を中心として
作品を残しています。
春章が死後、狩野融川に弟子入りしたため、
勝川派を破門となりました。
画号:春朗 群馬亭など。
役者絵『正宗娘おれん 瀬川菊之丞』、黄表紙『昔々桃太郎発端説話』を刊行。
宗理時代(1794年~1798年)
江戸中期の画家俵屋宗理の影響を受け、一時期、
二代目俵屋宗理を名乗りました。
優美な美人画様式を確立。
画号:百琳宗理、北斎宗理など。
この頃、狂歌に出会い、狂歌絵本『狂歌歳旦 江戸紫』、
『春のみやひ』などを刊行。
北斎時代(1799年~1819年)
読本挿絵と絵手本制作を中心に展開します。
この時期、120畳の大達磨や米1粒に2羽の雀を描くなど
逸話も残されています。
画号:北斎辰政、北斎、画狂人、画狂人北斎、可候、九々蜃、
葛飾北斎、錦袋舎、戴斗など。
狂歌絵本『東都名所一覧』読本『新編水滸画伝』読本『椿説弓張月』
『風流無くてなヽくせ遠眼鏡』『二美人図』
『仮名手本忠臣蔵』『潮干狩図』『北斎漫画』『東海道名所一覧』などを刊行。
為一時代(1820年~1833年)
この時期から絵手本の作品が減り、摺物が増えた時期です。
「ベロ藍」を北斎が先駆けて『冨嶽三十六景』で用います。
『冨嶽三十六景』で大成功をおさめ、風景画のジャンルを確立
しました。しかし、健康面で中風で健康を害したり、
おいの悪行に苦悩、妻が亡くなるなど、苦難が続いた時代でもありました。
画号:為一 不染居為一 月癡老人 など
『冨嶽三十六景』『百物語』『琉球八景』『千絵の海』などを刊行。
卍時代(1834年~1849年)
80歳過ぎると肉筆画、花鳥画、宗教的な課題を
取り扱うようになります。
『富士越龍図』は亡くなる3ヶ月前に描かれました。
龍が天に舞う、純粋で美しい富士山から離れ天に
帰還していくようです。
北斎自分自身の姿だったのでしょうか。
「あと10年……、いや、もうあと5年長生きできたら、
本当の画工になることができたものを」という強烈な言葉を残して。
画号:画狂老人卍
『冨嶽百景』『富士越龍図』『北斎漫画』『西瓜図』絵手本『画本彩色通』などを刊行。
(『富士越龍図』ウィキぺディアより画像引用)