1760年、本所割下水(ほんじょうわりげすい)、
現在の墨田区亀沢で生まれた北斎は90才で亡くなるまでに
90回以上も引っ越しを繰り返したといいます。
もちろん引っ越しは大人になってからのことでしょうから、
年に1回のペースではとても間に合いません。
なんでも1日に3度引っ越したなどという逸話も残っています。
一体何があったのか気になりますが、
そのほとんどは墨田区内で、
北斎は生涯、近所をぐるぐると渡り歩いていたようなものなのです。
(wikipediaより画像引用)
いったいどんなわけがあったのでしょう。
借金取りから逃げていたとか、常に新しい刺激を求めたからだ、など諸説あります。
最も説得力のある説は、北斎が片付けられない人だったから、というもの。
北斎と共に暮らしていた娘のお栄は二人とも絵のことしか考えていなかったようで、
家で料理はせず食事はいつも出前で、後片付けも一切しないため、
包んでいた竹の皮や箱などが散乱していたそうです。
(wikipediaより画像引用)
弟子の露木為一がその暮らしぶりを「北斎仮宅之図」として残しています。
質素な部屋の中でこたつ布団を被って絵を描く北斎と、
火鉢にあたりながらそれを見ているお栄の姿。
お栄の後ろには炭の俵と桜餅の包み、竹の皮などが散らかり、
物置とはきだめが一緒になったようだとの感想が書き添えられています。
また北斎が語ったこととして、
「9月から4月の間、ずっとこたつから出ないで絵を描いている。
眠くなったらそのまま脇にある枕を取って寝て、眼が覚めたらまた描く。
布団にはシラミが大発生している。」などと書かれています!! 大変!!!
そうしてごみや汚れが限界になると、
そのままにして近所の長屋に移るということを繰り返していたというのです。
あぁ何ともはた迷惑なお話し、大家さんもお気の毒です。
北斎は当時から大変な売れっ子作家だったはずで、
実際50才頃には新居も構えたようなのですが、
1年も住まないうちにまた長屋を転々とする暮らしに戻ったそうです。
それが原因かどうかは分からないですが、50過ぎからはお栄が出戻って同居するまで、
奥さんと別居して独り暮らしだったようなのです。
きっと掃除をされるのも嫌だったのでしょうね。
新居を建てるとき自分専用のアトリエを作れば済みそうなものをと思いますが、
一つ所にとどまること自体が嫌いだったのかもしれません。
雅号も30数種類あって長く同じ名を使わなかったのも、
北斎のそんな一面が関係しているのかも。
常に新たな名前で、新たな場所で、新たな境地でというのを好む人だったのかな、
などと想像します。
本所達磨横丁(東駒形一丁目あたり)に住んでいた80才の時火事にあい、
集めた資料や描き溜めたスケッチなど全部焼けてしまい大変落ち込んだそうです。
(wikipediaより画像引用)
その後も引っ越し続けますが、
新しい引っ越し先についてみると前に一度住んでいた長屋で、
退去した時のままの散らかり具合・・・。
それを見た北斎は、何を思ってか引っ越し人生に幕を引いたとか。
う~ん、深いような愉快な話ですね。
片付けられない部屋の中で膨大な数の絵を描き続けた北斎。
例えば、「相州梅沢庄(そうしゅううめざわのしょう)」。
藍色の美しさと構図の妙がなんとも爽快な作品です。
これほどにも美しい絵を片付けられない部屋で描いていたのかと思うと感慨もひとしお。
北斎にとって人生の中の優先順位は、目の前の紙に思うままを描くことだったのでしょうね。