お待たせいたしました!
青野カエルさんのナビで
花魁の一日に密着取材に行きましょう!
江戸時代、吉原と言えば男衆はもちろんのこと、
皆のあこがれる夢の国でした。
三月には満開の桜が道なりにずらっと植えられ、
散る前に全部抜いてしまったり、
四月にはその代わりに菖蒲を植えたりと、
メインストリートの演出も月ごとに趣向を凝らした大仕掛けのものでした。
そう、まるで舞台のようですね!
そんな華やかな場所に暮らす、
美しく装った遊女たちはさぞかし浮世離れして、
とってもミステリアスな存在だったことでしょう。
花魁はその夢の国で、どんなふうに一日を過ごしていたのか、
とっても気になりますね。
毎日、早朝の4時5時にお泊りのお客を起こすところから一日が始まります。
卯の刻、6時頃に吉原の唯一の出入り口、大門の木戸が開き
「またいらしてね、約束よ」と「後朝の別れ」(きぬぎぬのわかれ)でお見送り。
このあと、巳の刻、午前10時頃まで二度寝します。
起きたら、お風呂、朝食、お化粧、着替え、と忙しく身支度をして、
午後からは昼の部の営業開始です。
昼見世といって、格子の中に座ってお客の指名待ち。
この時、高位の花魁は見世には決して座りません。
呼び出しがかかる夜までは自分のお部屋で待機です。
ただし、お得意先への営業メール(お誘いのお手紙等)は欠かしません。
他にも、お付きの妹分である新造や禿(かむろ)の教育や自分磨きもお仕事のうち。
結構やることがいっぱいありんす。
申の刻、午後4時頃に昼見世終了、夜見世まで休み時間です。
酉の刻、日が沈むころ、
夜の部の営業開始でまた格子に座り、
ご指名があれば2階のお座敷にあがります。
花魁の場合は、部屋に引手茶屋から呼び出しがあれば、
お抱えスタッフ一同で花魁道中に繰り出す時間。
若衆の提灯を先頭にこれでもかと着飾った新造、禿らを引き連れて、
薄暗がりの中をゆっくりと進む行列はさぞかし幻想的な眺めだったのでしょうね。
引手茶屋で大宴会を催したあとは、お客さんと一緒に妓楼に帰ります。
男なら一度はしてみたい、パレード付きの同伴出勤ですね。
亥の刻、夜の10時頃、大門が閉まります。
お帰りの人は脇の小さい木戸からになります。
子の刻、0時頃、見世を閉めます。オーダーストップです。
雑用を済ませたら、お客のいない遊女は寝間着に着替えて寝てしまいます。
丑の刻、深夜2時頃、「大引け」といって、
この時間まで帰らなかったお客さんはお泊りになります。
そしてまた新しい朝を迎えることになるわけです。
喜多川歌麿の「青楼十二時」(せいろうじゅうにとき)を見る機会があれば、
上記の大体のタイムスケジュールと照らし合わせてみると面白いと思います。
吉原のお休みは正月とお盆の2日だけ、後は一年中同じ毎日の繰り返しです。
年季が明ける27才になるまでは、大門の外にも出られなかった遊女たち。
いくらきれいな着物が着られても、
皆の憧れのスターだったとしても、
やっぱりちょっと切ない運命です。
戌の刻とは午後8時から9時頃のこと。吉原では昼見世と夜見世があり、後者は暮六つ(午後
6時頃)から始まり、遊女は緋色の毛氈の上に座って客を待ちます。
この絵は、すでに2時間も経ったのに客がつかずに、その間、馴染みの客へ宛てた手紙を書く遊女を描いています。いかにも真面目そうに両手を足に添え、爪先を立てながら遊女の言うことを聞いている中腰の禿と、遊女の語りかける反り気味の体が程よく支え合い、安定した構図になっています。
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この絵は、すでに2時間も経ったのに客がつかずに、その間、馴染みの客へ宛てた手紙を書く遊女を描いています。いかにも真面目そうに両手を足に添え、爪先を立てながら遊女の言うことを聞いている中腰の禿と、遊女の語りかける反り気味の体が程よく支え合い、安定した構図になっています。 -
禿を呼んでひそひそと耳打ちする遊女。 -
両手を足に添え、爪先を立てながら遊女の言うことを聞いている中腰の禿。
喜多川歌麿(きたがわ うたまろ)
宝暦10年(1760)~嘉永2年(1849)
19歳の時、当時の似顔絵役者絵の第一人者だった勝川春章に弟子入りし、翌年、の画名で浮世絵界にデビューしました。師の亡くなったあと、北斎は勝川派から離れ、京の琳派の流れをくむ俵屋宗理の名を継ぎ、町絵師として活動を始めました。宗理として3年ほど活動し、北斎と名乗りはじめたのは38歳の頃。40代後半に読本の挿絵の斬新な表現が評判となり、50代になると門人の数も増え、葛飾派として一派を作り上げるまでになります。そして北斎の名を不動のものとした『富嶽三十六景』を手がけたのは、70歳を過ぎてからでした。90歳の頃、「あと10年、いや5年あったら本当の画工になれるのに」という強烈な言葉を残しています。
歌麿名作拾遺集 喜多川歌麿
歌麿の代表作「高名美人六家撰」の作品をも含む「歌麿名作拾遺集」です。歌麿は多種多様な作品を残しましたが、言うなればその肩書きは女絵師、あるいは美人画家といわれます。度々の弾圧や制約にもめげず、果敢に彼の信じるところの女絵を描き続けました。女性を正面から見つめ、生身の生活ぶり、肉体、心を描く、その洞察力は鋭いものがありました。歌麿の全作品のうち約三分の一は、吉原と遊女を画題としていますが、町家の母子の情愛や評判の茶屋娘らを描くなどの画域を広めています。浮世絵美人画の巨峰の上に立つ歌麿の30作品です。