渋谷公園通りから代々木公園ケヤキ並木で
開催されているイルミネーション「青の洞窟 SHIBUYA」を堪能してきました。
約250mの幻想的な青の世界。
浮世絵界の青といえば、
北斎ブルー、広重ブルー、ジャパン・ブルーときますね。
そこで今日は「青」について語りたいと思います。
19世紀末、海外では「ジャポニスム」(日本趣味)の潮流にあり、
日本の芸術品や浮世絵が、美術界に絶大な影響を与えました。
とりわけ浮世絵の「青」は、
「広重ブルー」「ジャパン・ブルー」と大絶賛されていました。
印象派の画家たちはこのブルーに触発され、
1876年ピエール=オーギュスト・ルノワール『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』、
1888年フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ『星降る夜』などの
名画が誕生しています。
画像引用:wikipedia
フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ『星降る夜』
なんて幻想的で不可思議な世界観でしょうか。
時間の概念を忘れてしまいそうです。
さて、
広重ブルーは、現在のプルシアン・ブルー(紺青)のこと。
プルシアン・ブルーは、1704年現在のドイツ(旧プロイセン王国)で
発見された人工顔料です。
18世紀のヨーロッパでは、青い顔料は、
アフガニスタンでとれるラピスラズリ製顔料「ウルトラマリン」が使われていました。
高価な顔料に代わり、人工顔料は瞬く間に広がり、
陶磁器などで使われるようになったのです。
絵画では、浮世絵によってプルシアン・ブルーという色の価値が見直されました。
プルシアン・ブルーは、
1763年蘭学者平賀源内の『物類品隲』(ぶんるいひんしつ)の中で
「ベイレンブラーウ」と紹介されています。
1766年頃には伊藤若冲が『動植綵絵』(どうしょく さいえ)の
「群漁図(鯛)」でルリハタを描く際、
日本で初めて使ったといわれています。
このプルシアン・ブルーを浮世絵の版元たちは、
都市名ベルリンと藍色をあわせ、「ベロ藍」と呼んでいます。
1831年、葛飾北斎が『富嶽三十六景』で「ベロ藍」を使い、
人々を魅了したのは、浮世絵好きの皆さんはご存知のことですね。
藍色の濃淡で表現した「藍摺」の技術が初めて使われ、
浮世絵の青色革命が始まったのです。
浮世絵の青色は、錦絵(多色摺版画の時代)で初めて登場しました。
そして「ベロ藍」が導入されるまで、
露草(つゆくさ)と本藍(ほんあい)の二色だったのです。
露草は青い花から色素を取り出し、
紙に何度も何度も塗り重ねた藍紙と呼ばれる絵具です。
水や湿気に弱く、現在では色が変色し、青色を確認することができません。
本藍は蓼藍(たであい)という草を発酵させた原料からつくる絵具です。
現在のジーンズと同じ色素「インディゴブルー」です。
この藍は変色しにくいのですが、水に溶けないため、濃淡をだすことができません。
ベロ藍」は、変色せず水に溶け、
濃淡をだすこともできる浮世絵にとって理想的な青でした。
葛飾北斎の『富嶽三十六景』で始まった青色革命ですが、
最も海外に影響を与えた絵師が歌川広重と言われています。
広重は武家の出身で絵師となりました。
透視法を用い、和歌や俳諧などにも造詣が深く、天候や時間も含めて、
緻密な計算を名所画に反映しています。
特に遺作となった1856年から1858年の『名所江戸百景』は
広重晩年の集大成といわれ、運河に囲まれた江戸の風景を
ベロ藍により、いきいきと美しく表現しています。
↑名所江戸百景 大はしあたけの夕立
実は『名所江戸百景』は江戸への鎮魂歌として
描かれたのではないかという説があります。
1855年、安政江戸地震が起こり、江戸は崩壊しました。
その3ヶ月後に歌川広重は『名所江戸百景』の制作を始めたからです。
「美しく楽しい江戸とその自然の風景を永遠に残す、
未来の復興のエネルギーとなるように」
そんな思いが込められているのではないでしょうか。
世界にその名を轟かす「広重ブルー」。
江戸を愛する歌川広重の精神は、世界に伝搬し、
今日でも絶大な人気を誇っています。